以下記念事業ページ

平成26年8月18日、新選組誕生150周年記念事業を無事に終了することが出来ました。
たくさんの方に、参加御協力頂きまして大変ありがとうございました。
壬生寺本堂前にて



妻籠宿を出発する新選組!玉造隊、日野新選組同好会、新選組滝野川隊


今から150年前、天下国家を憂い集まった多くの志士が将軍家茂の
上洛の警護を目的として、江戸伝通院を出発し京都へ向かいました。
その後、彼らは熱い志を持って新しい国づくりに奔走、ここに新選組が
誕生します。
先の東日本大震災で、日本はかけがいのないものを失いました。
そんな中「絆」の言葉に多くの国民が奮起し互いに手を携えて
前に進んでいます。人と人、地域と地域のつながりは深まっており、
「絆」は復旧復興に大きく貢献しています。
私たちは、先祖から受け継いできた多くの事を次世代に「誠」という
たすきで繋ぐことが大きな役割であり、役目だと考えます。
大切な国、故郷、家族を思い、150年の歴史を重ねた今、当時と
同じ行程を歩くことを通じて日本に元気を与え、多くの人に勇気を
与えることを目的とします。


□□□事業協賛者一覧はこちら□□□
更新しました。


□□□□□特別企画 漫画「ミスターかもーん」はこちら□□□□□

第5話 道祖神

主な登場人物



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主催
新選組!茨城玉造隊、茨城県行方市観光協会

共催
まちづくり市民劇団玉造座、茨城県行方市観光協会

後援
茨城県、茨城県行方市、全国新選組サミット会

−−−−−本事業に関する問い合せ先、参加申し込み先−−−−−

茨城県行方市観光協会 п@0299−55−1221   〒311−3512 茨城県行方市玉造甲 1234

玉造隊Mail  info@tamatsukuritai.net  までお願いします。



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中山道 行程 略図
(到達地点を表示)




平成26年8月17日、京都でのパレード
八坂神社西楼門前階段にて集合
四条通をパレードし壬生寺を目指す





到着後壬生寺にて、今回の参加団体は
玉造隊、日野新選組同好会、新選組滝野川隊、京都新選組同好会、今戸隊
の皆さん



月真院(げっしんいん)
新選組から分離した伊東甲子太郎が孝明天皇御陵衛士を組織しここに屯所を構えました。



普段は入れないようになっているみたいですが
今回は入ることができました。内部の様子



伊東甲子太郎や鈴木三樹三郎らがいたと思うと
茨城から来た自分としては感慨深い



霊山(りょうぜん)墓地、坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の墓



反対側を見ると、京都の町並みが見降ろせます。
幕末維新の志士たちは、今の世の中をどう見てるのでしょうか、、



行方市出身の若泉主税の墓
芹澤鴨生家跡からほど近い大宮神社の神官でした。
もう一人、行方出身の中野仲の墓があるはずでしたが
確認できませんでした。



8月18日、壬生寺での芹澤鴨追善供養の様子





芹澤暗殺の現場となりました八木邸、内部の撮影は出来ません。
門をくぐり、右手の奥座敷にて文久3年(1863年)9月16日暗殺された。



京都島原の輪違屋
326年もの間営業を続けている唯一の置屋です。明治になってからはお茶屋兼業
今年は10年ぶりの公開らしく、内部も見学できました。



柱を使ってない庇、普通少なくともすみの所に柱が立つんですが、使わず
早い話が梃子の原理だけでもたせてあります。



太夫の書が襖に貼られていました。内容はお客さんに対してのもので「また来てください」的なものらしい。
この部屋には、近藤勇の書も飾られていました。



二階は直接の撮影ができないため、一階にありました資料にて
上が紅葉の間、下が傘の間
紅葉の間は、実際に紅葉を使い型取りし彩色して作られている。
傘の間は、道中傘を襖に貼り付けて作られていました。桂小五郎の直筆の掛け軸が掛けられています。



角屋(すみや)、今は美術館となっています。
昔の揚屋(今でいう料亭)
明治以降、島原は寂れてゆき大門、輪違屋、角屋の三か所が往年の名残りをとどめている
開館時期が決められていて
3/15〜7/18 と 9/15〜12/15 となっていて、せっかく来たのに閉まっているなんてことになりやすい



入口近くの柱に残された新選組による刀傷
一説には、芹澤鴨によるものとかありますが、かなり深い傷となっています。
気になったのがこの柱、傷の下あたり継ぎ手でつないであります。
最初からそんなことするわけないので、修理とか過去にしているのでしょうか



大きな台所の様子、展示スペースは撮影禁止となっております。
新選組のつけ払いを禁ずることを書いた資料とかも残されていました。





松の間から見る主庭と臥龍松(がりょうのまつ)
新選組も酒を交わしながらこの光景を眺めたのでしょう。江戸時代は当然今のように電気はないので
まだ明るいうちから宴席を始めたらしいです。



松の間の孔雀の障壁画
松の間は、大正時代に火災にあっていますので当時のままではありません



場所的にこのあたりが、新選組幹部が座ったであろう所
芹澤鴨は松の間での宴席のあと八木邸で暗殺されました。



西郷隆盛が行水に使用したとされるタライ
昭和20年戦況の悪化にともない、空襲による延焼を防止するため
主要道路や鉄道の線路から50M以内の建物は取り壊しの対象となりました。
その際、明治維新の元勲も使った遺標であると理解され
結果、建物の取り壊しを免れたとされる。まさに幸運のタライ



帰路、大津SAにて琵琶湖をバックに
左から野原さん、かくさん、行方市商工会平野会長、行方市商工会石田事務局長、さいとう



須田隊長、昨年に続き2回目の京都ですが、この次はいつになるか





平成26年8月2日(土)
武佐駅近くの「いっぷく処 綿屋」さんをスタート。
今回の参加者は、左から ばんどうさん いいだ局長 かくさん みやもとさん



宿を出たところにあります。住蓮坊(じゅうれんぼう)首洗い池
住蓮坊は、浄土宗開祖の法然上人の弟子、当時都で法然上人の人気が高く
人の恨みを買い上人は讃岐に流罪、弟子の安楽坊(あんらくぼう)は
加茂川で首を討たれ、住蓮坊はここで処刑された。



民家が設けた施設の納涼床、いかにも涼し気だ。
関東では見かけませんね





鏡の宿にある旅篭跡碑。鏡宿は鎌倉時代の宿駅であったが
江戸時代に入ると鏡は宿駅からはずされてしまいました。
しかし、立場としての規模は大きく、「間の宿」として賑わっていた。



鏡宿は源義経ゆかりの地で多くの史跡を残す。
ここもその一つで、源義経宿泊の館(白木屋)跡。
承安4年(1174)3月に京都の鞍馬寺から奥州下向の途中に泊まった。
そして、義経は追手の目を欺くために、急ぎ髪を切りただ一人で元服することを決意したという。



鏡神社の参道にあります「鳥帽子掛けの松」
義経が参拝したときに、この松の枝に鳥帽子を掛けたとされる。
明治6年の台風で倒れたため、株上2.7Mのみが現存しています。





義経元服の池
義経はこの池の水を元服の際に使ったといわれ、また元服の姿を水面に写したともいわれています。



新家棟川手前にあります愛宕山碑と立派な常夜灯





野洲(やす)にあります背違地蔵



守山宿にあります守山宿・町屋 ”うの家”。
第75代内閣総理大臣だった故宇野宗佑氏の生家
造り酒屋だった旧宇野本家を改築、展示室やギャラリーとしています。



守山宿本陣跡



街道沿いにある古高俊太郎先生、生誕の地碑。
古高俊太郎は幕末の攘夷派志士
京都四条で古道具や馬具を扱う枡屋を継ぎ京都の長州間者の大元締めとして
情報活動と武器調達に奔走した。
その後、新選組に捕縛され過酷な拷問の末に自白
これが池田屋事件とつながる。



草津川(天井川)を越えたところにあります旧中山道と旧東海道の合流する追分
ここに、常夜灯をかねた道票が残っています。
「右 東海道いせみち 左 中山道みのぢ」とある





本日の到着地、草津宿本陣
ここは立派な本陣が現存してます。本陣内で撮影



慶応元年(1865)四月、土方歳三が江戸で隊士募集を行い、その結果
新入隊士を引き連れて上京の途中、草津に足跡を残しています。
草津宿本陣の大福帳に土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎、藤堂平助
ら幹部四名のほか総勢三十二名の記載があります。





8月3日(日)、本日も昨日同様の4名で三条大橋を目指す。
正確には、ここから旧東海道を行くことになる





草津宿を出てすぐ立木神社があります。
ここには、草津宿追分の石造りの道票が残されています。



街道沿いにある弁天池。水面は水草で覆われていました。



草津宿と大津宿の間にある「立場」月輪(つきのわ)の碑。
後方は、水はないが月輪池



瀬田の唐橋(からはし)手前にある石材店の道標。
夫婦猫となっていて、ここを左に進み、その先を右に曲がると瀬田の唐橋。



瀬田の唐橋に到着、吹く風もいくらか涼し気である。



膳所城(ぜぜじょう)勢多口総門跡。膳所城は家康の命により藤堂高虎がおさめた城である。
瀬田の唐橋と琵琶湖のおさえとして造られた幕府直轄の城である



少し、寄り道をして琵琶湖を眺める。歩き通しだと足が痛くなります。



朝日将軍木曽義仲と俳人松尾芭蕉の墓があります大津宿・義仲寺(ぎちゅうじ)



木曽義仲公の墓、義仲は源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と
戦い31才の若さで討ち死にした。後年、美しい尼僧が草庵を結び日々これを供養した。
この尼僧が巴御前の後身であった。
木曽路の途中に立ち寄った木曽義仲記念館が思い出された。



松尾芭蕉翁の墓。芭蕉翁は元禄7年(1694)10月に大阪で亡くなった。
享年51歳。本人の遺言により義仲の隣に葬られた。



レトロでモダンな滋賀県庁



大津宿にありますロシア皇太子ニコライが襲撃された大津事件の記念碑





大津市内を走る京阪の路面電車。これに乗れば京都まですぐだ。



大津宿本陣跡の碑前にて



逢坂山(おおさかやま)にあります蝉丸(せみまる)神社。
蝉丸は琵琶の名手で、音曲諸芸道の神であり、奉納されている絵馬も芸道に関するものが多い



逢坂山関所、三関(さんかん)の一つと言われた。
ちなみに三関とは、伊勢国鈴鹿、美濃国不破、そしてこの近江国逢坂である。



山科の追分、歩いている道路の右側が大津市で左側が京都市。
道路のこちら側と向こう側では県が違うということである。三条大橋は右側を行く。





当時、米をはじめ多くの物資を運んでいた東海道では大津の逢坂峠と
京都の日ノ岡峠の難所があった。そこで、1805年に一万両の工費をかけ約12キロの道を
車のわだちを刻んだ花崗岩の石を敷き並べて牛車の運行に役立てた。これを車石という。



旧東海道の細い道を抜けると広い三条通りに合流する。
この合流地点にある昔の牛車道を模したモニュメント
牛車の台となっている石は、地下鉄のために廃線になった京阪電鉄の軌道敷である。







三条通り蹴上にあります、坂本龍馬・お龍「結婚式場」跡の碑



午後4時15分、旧中山道の到着地、三条大橋に着きました。
ここで、岡山新選組準備会の女性2名が出迎えてくださりました。
本当にありがとうございました。



土方副長とみやもとさん



その後、八坂神社に移動。8月17日はここから壬生寺までをパレードします。
多くの皆さんの参加をお待ちしています。





その他、番外編



ポリタンク、関東では赤ですが関西では青



驚き、タクワン入りのモダン焼き







中山道宿場の参考画像、馬籠宿の様子、画像の向こうが名古屋、京都方面



□□□□□特別企画 同時進行 漫画「ミスターかもーん」□□□□□

主な登場人物



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